200604
■2006/4/3 「言葉よりも」
 言えない言葉なんて幾つもあって、それは時間と共に少しずつ胸の奥に澱み、やがて幻のように霧散していく。大切な何かを伝えなくてはいけない時にどうしても言葉が出てこなくて、気の遠くなるほどの時間が過ぎてやっと、あの時に自分が何を伝えたかったのかを急に理解し、涙を落とす時もある。想いなんて不確かな物に振り回される僕らは時に滑稽で自虐的だ。でも、我を失うことに否応も無いほど、想いとやらは強固なんだ。
 幾つかの季節を越えて、また、春。鮮明になっていく陽射しの中で、日々美しさを増していく君の後ろ姿をぼんやり見つめながら道を歩いている。長い休暇も間もなく終わり。日常がすぐ近くに息づき始める。時折振り返っては微笑む君の肩越しに遠い空が見えて、僕は言葉を失い、曖昧に笑い返すだけ。平日の昼下がりは奇妙に静かで、春特有の優しい風が頬を撫でていく。目の前にいる誰かに何かを伝えることなんて、何も難しいことじゃない。分かっているはずなのに、雲間から射す光の帯びは滑らかな美しさで、道々の端に咲き零れようとしている気の早い花々は健気に揺れている。一つ溜息をついて、僕は思い立ち、君の隣りに並んだ。首を傾げる君の手を黙って握る。少し驚いた顔をした後で君は春そのもののような笑顔を見せてくれた。
 伝えたい言葉が見つからない。想いは溢れようとしているのに。数年後、また僕はそれを思い出して苦痛に身を捩るのだろうか。でも今は、少なくても今だけは違う気持ちでいる。言葉で伝えられない想いはそっとしまっておこう。そして目の前にいる君の名前をそっと呼ぼう。そっと、そっと。この北の地にも桜は間もなく咲くそうだ。手をつないで僕らは新しい季節をぶらりと見物に行く。
■2006/4/7 「生きる」
 人生なんて糞だとお前は言う。お前の人生なんて知らない僕は曖昧に微笑むばかりだ。そして同時に思う。お前だって他の誰の人生も知ることは出来ないだろうと。どうしてそんなに生きていきたいのかなと君は言う。君がなぜそんなに生を軽んじるのか分からない僕は押し黙ってうなだれるばかりだ。そして声にならない気持ちが君に届くように願う。全身全霊で生きて死んでいった人々の悲痛な断末魔が無数に折り重なって今の僕達があるのだということ。
 世界は舞台だと叫んだあの天才的な狂人の夢を嘲笑うことは簡単だけど、僕にはどうしてもできない。確かに世界は物語で、人生は大きなキャンパスかもしれない。布地の上に塗りたくられた絵には幾億もの歴史が積み重ねられ、乾き切って軋んでいるだろう。確かに物語りは幻想に過ぎないのかもしれない。でも僕はこう主張したい。例え幻想に向かって歌われた子守り歌にでも、心は動くだろう、と。幾つもの迷路を潜り抜け、満身創痍で終わりに辿り着いた。最後の扉を開ける鍵は錆び付いてしまっていて、鍵穴の中で虚しく折れてしまった。それでも。そうであったとしても。
 順風満帆な人生は、きっと退屈な人生と同義なんだろう。そしてそれはとても幸福で傲慢な思い上がりだ。終わり良ければ全て良しの標語と同じくらいいいかげんな思い込みだ。もっとリアルで、切実なんだ。常に現在進行形に変化していく毎日の断片だけをつかまえて斜に気取った物言いは投げ捨ててしまえ。今日を乗り越えて明日を迎える為に、最大限の努力をしたいだけなんだ。
 人生なんて糞だとお前は言う。どうしてそんなに生きていきたいのかなと君は言う。好きにすればいい。確かにここは井戸の中だ。でも、そこでうなだれているだけのカエルには分からないだろう。井戸の底から見上げる空がいかに深いかということを。井戸の底にいるからこそ分かる無窮の深さを。そして、俯いているばかりじゃ気付けないだろう。井戸が、実はそんなに深いものでも無いのだという事を。その気になれば乗り越えられるものでしかないのだということを。

 先日、友人からメールがあった。冗談めかした幾つかのやり取りの終わりに、何気なく友人が書いた文面が酷く気になった。『 上等上等。楽しく楽しく笑いながら死んでやるさ』。逡巡した後、僕は一言だけ訂正してそのまま送り返した。『楽しく楽しく笑いながら生きてやるさ』。祈るような気持ちで、そっと、送信ボタンを押した。
■2006/4/8 「理解」
 幾ら言葉を尽くしてもお互いに理解しあえない。でもそれはどちらか片一方が悪い訳ではない。例えば僕と誰かの例で言えば、相手だけが悪いのでは決して無い。相手の立場で考えるまでも無く、きっと両方に歩み寄る意思が足りなかったのだろう。
 歩み寄る、という言葉は美しい。でも、少し思うところもある。意見がぶつかってどうにもならない時、そんな場合は、その懸案のほぼ全てにおいて言えることだが、お互いに自身が正しく、相手の誤りを訂正しようという涙ぐましい努力の擦れ違いによってもたらされる喜劇なんだろう。
 理解。思えば不思議な言葉だ。それは、誰かと誰かの意思が同じベクトルと同じ力場を持ったときに初めて訪れるカタルシス。でも、そもそもそんなことが可能なのだろうか。我と彼は手を握り合えるほど近くに存在しながら、その実、悲劇的なまでに『他者』なのだ。例えば僕が胃痛に苦しんでいる時、そこにいる誰かはケロリと健康な身体をしている。他者。この超現実的な物理的隔絶。精神は物体を越えるか。そんなことは誰にも分かるはずが無い。
 眩暈がするまで言葉を尽くした。それでもやはり歩み寄ることは不可能だった。そんなこともある。もう僕はそれを認められるくらいには経験を積み、別の言葉で言えば大人になった。叫ぶほど、拳を固めるほどに頑なになっていく、両者の間にそびえ立つ壁はやはり強固で、なんだか泣き喚きたいような気持ちにもなるけれども。
 諦めを装ったような溜息を一つ、わざとらしく盛大に見せつけた後、独り帰った。そんな自分が本当に情けなかった。僕は何をしたかったのだろう。暗い部屋に辿り着いて寝転がり、ぼんやりと天井を見つめた。やがて、そっと流れ落ちるエゴの塊。そうだ。僕は青臭い讃歌を歌いたい。時に攻撃的だけれども、結局全てが笑顔に収縮していくような讃歌を。理解なんて端から求めちゃいないんだ。思春期の頃から苦しみ求め続けてきた自由な世界。それは全ての可能性が許容される夢物語りなんだ。本当に欲しい理解は、自身と他者が完全にシンクロするようなモノクロの模範解答じゃない。あらゆる指向性がそのまま受け入れられる、そんな大きな括りなんだ。自分と相手が多少食い違ったってしょうがないだろう。他者なんだから。僕たちは生まれた瞬間にそれを約束させられたのだから。飲み込んでしまえ。全部、全部だ。

 それでも。どうしようもない夜もある。そんな寂しい夜に僕は。戸棚の奥に隠してある、ちょっと贅沢なブランデーを生のままで流し込み、懐かしい歌を口ずさむ。涙は流したくない。顔を両腕で覆って、暗い部屋の中、懐かしい歌をそっと口ずさむ。
■2006/4/11 「週末の過ごし方」
 毎週末が楽しみだったのはいつの頃までだっただろう。いや、この言い方は正しくないかな。今だって週末を心待ちにしながらweekdayをやり過ごしている。僕が言いたいのは、週末を主体的に、積極的に楽しもうとしていたのはいつまでの事だったのかということだ。
 出かける約束、人と会う約束、ちょっとした仕事の約束。約束。昔、僕にとって約束は嬉しい物だった。早くその日が来ればいいと心から願っていた。少しだけ特別なイベントの日は尚更で、比喩ではなく指折り数えながら寝付けない夜を過ごすこともあった。あれから何が変わったのだろう。週末はいつの間にか訪れる物になってしまっている。多忙が過ぎるせいか。それともただ単に歳を取ったからなのか。それともそれとも、特別な週末なんてものが無いという事をもう頭のどこかで知ってしまったからなのか。
 消極的な時間の過ごし方はしたくないな、と、今日、君の横顔を見ていて急に思った。どうしてだろう。車の外の景色は春にしては寒々しい灰色の雨模様で、時折横殴りの風がハンドルを捕ろうとする。路面は延々と濡れそぼっていて、いつしか立ち込め始めた霧の向こうにそっと消えていくんだ。やがて車は君の家に着く。また、今日が過ぎていく。
 いつものように明日の約束をした。体調を崩しかけている僕は少しだけ不安だったけれども、笑顔で頷くことが出来たと思う。それから、気が早いようだけど週末の約束をした。「日曜日は逢える?」と聞く君に「もちろん」と答えて、ふと宙を仰ぐ。二人で幾度も越えてきた週末が突然いくつかの景色と共に脳裏を駆け過ぎて行った。週末の過ごし方。君と、僕の。大切な時間の使い方。「どこか行きたい所はあるかな?」。逡巡した後に口から出てきたのは、そんな何度も繰り返した常套句だった。君は少しだけ考えた後、いつものように困った顔で笑った。でも、その後に続く言葉はいつもとは少しだけ違う物だった。

「お金ないくせに。無理しなくていいよ」
「ご、ごめんなさい」

 ひらりと手を振って、君は薄絹のように優しく立ち込める雨の向こうへ。見送るまでも無く、君がこちらを振り返らないということはもう知っているから。思わずこみ上げてきた笑い声をちょっと我慢しながら僕はイグニッションを。そろりと身震いした車は雨の中へ一足ずつ進み始める。そしてweekdayの真ん中を横切っていく。シートに深く身体を沈ませながら僕は思う。週末の過ごし方なんて幾通りもあるのかもしれない。でも何となく予感がある。きっと今週も君は僕の部屋で一日中笑ったりむくれたりしながら春の休日を過ごしてくれるのだろう。それが今は嬉しい。僕は毎週末が楽しみだったのがいつのことだったか思い出せない。それはもしかしたら、多少の年月を経て、今もまた週末を楽しむことが出来ているからなのかもしれない。一度そう考えたら多忙が続く毎日もなんだか嬉しい物のように感じて、僕はアクセルを深く踏み込んだ。フロントガラスの上を透明な流線が走っていく。春の雨ももうすぐやみそうだ。ほら、一雨ごとに春はやってくる。花ももうじき咲くだろう。財布の重さだけが少しだけ心許ないけど、今は気付かない振りをして笑おう。
■2006/4/22 「感傷」
 缶ビールを片手に午前二時の夜の中へ。何気なくくわえたままの煙草の先がぼんやり光っている。月は幾ら夜空を探しても見つけられなかった。春の星座が霞みがかる闇の中で胡乱気に瞬いている。週末の田舎道には音も光も無い。灯の絶えた家並みと、それを囲う低い塀が僕の足音を少し遅れつつ反響して寄越す。
 忙しかった。四月は何故かいつも多忙だ。いや、時間はあったはずだ。だが、煩雑な書類手続きや新しい生活パターンに慣れるまでどうしても気力が湧かなかった。いいや、やっぱり違う。時間は確かにあった。何もかもが言い訳に過ぎない。口に運ぶビールがいつもよりも若干苦いような錯覚。続いてくわえ直す煙草の煙がいつもよりもやや目に染みるような懐かしさ。僕は無言で午前二時の田舎道を歩く。行き先は分かっている。そこには桜。僕と友人達が幾度も見上げてきたノスタルジアそのものだ。
 歩を進めるたびに懐かしさは募って、胸が痛んで、頭痛がし始めて、鼻の奥がつんとして。どうしてだか分からない。酷く不安定な夜に独りで桜へ向かう。頭の中に次々と浮かんでは消えていく数限りない言い訳が白々しく感じる。歩き慣れた道は春の夜風が吹いていて生ぬるくも肌寒い。そもそも何故僕はこんな夜に歩いているのだろう。多忙だった毎日に一応の区切りがついた事を感じて、この週末は心穏やかに過ごしていた。明日もそれは続くだろう。予定はもうはっきりと明示されている。それを一つ一つ楽しむだけでいいはずなのに。
 気がつけば、桜の木の下。煙草はいつのまにか燃え尽きてしまっていた。手の中のビールは温くなっていた。風が吹くのを感じる。花開いた幾千と重なる花弁が一斉に揺れて、心を掻き乱した。しばらく呆然とその歌を聞くうちに腰から砕けて、根元にへたり込む。そうして初めて、自分が疲労している事に気がついた。震える身体を抱きしめて、僕はまた頭上の華の宴を見上げる。花はざわついたまま、声高に何かを叫んでいるように見えた。
 感傷、と口に出す。なんだか陳腐にその音は響いた。あまりに情けなかったから声を出して笑った。自分が情けなくて笑った。手を広げてじっと見つめる。人よりも少しだけ大きな手。でも何を掴むことが出来ただろう。何を掴み続ける事が出来ているのだろう。胸の奥が音を立てて軋んだような気がして、身体を九の字に折る。感傷。傷。ああ、全く言葉って奴は的確だよ。
 いつか友人達と見上げたこの桜の記憶も、春の嵐の中で跡形も無く舞い散るだろう。それならそれで構わない。そろそろ限界だ。手先と同じように言葉も震え、用をなさない。疲れきった身体を起こす気力も無く、桜の木の下で朝を待つ。
■2006/4/23 「序詞の終わりに」
 夕闇の中で永遠を探す。長く伸びる影法師が薄らいで消えるその前に。むせるほど駆け回って夢を探す。どこに落としてきたのか皆目見当がつかない。でも本当は知っている。失われていくのはいつでも気力だろう。世界は変わらない。欠伸が出るほどに。自己欺瞞に囚われて変質していく個。叫ぶほどに喉は潰れ、不安に駆られて辺りを見回してみたりする。完成度の高い出来レースみたいなものだ。誰もが同じ道を通って過ぎ去っていく。
 友人から届いた電子メールには無味乾燥な独り善がりが吐き出され続けていて、それを見る僕が吐き気を覚えたのは、自分自身もそれと何ら変わらないのだという自覚をどうしても拭い去れないことに気付いているからだ。必要の無い物を片っ端から焼き捨てて無かったことにしてきた。手に持てる荷物は限られていて、どうしようもなかったとは思う。だけど、しょうがないという言葉で切り捨ててきた物に切実な郷愁を覚えている現実が締め付けられるほどの実感として心を攻め立てる。携帯に映し出された記号の羅列は僕に返信を促したままぼんやりと光っている。急性失語症にでもかかったのか、どうしても指は動かなかった。

 『うぐいすは甘美な声で鳴いていた
  抗いかねてスフィンクスの優しい顔に口付けしたときに
  魂の消える気持ちがした』

 読みかけていたハイネ詩集を慌てて放り出した。頭を抱え、呻く。道は決して平坦ではなかったはずだ。転げ回ってやり過ごしてきたはずだ。何が足りない。今、自分に何が足りない。心蕩けるような幸福を描いた物語にそっと挿し込まれているような悪意か。考えることを放棄したことは無かったはずだ。確固たるものが無くても人は生きていけることをもう充分に知っている。そしてそれに善し悪しという浅薄なレッテル貼りが不必要であることも理解している。幸福な人は皆『私』と『君』の断続的な関係の中で酸欠の魚よろしく口をパクパクさせているけれども、そんなことはただの些末事だ。足りない物はなんだ。諦めなのか。暮れて行く日々の途中でやっと探し当てた美しい物は、握り締めたとたんに見るも無残な生臭い物に変わっていく。

 熱に浮かされて脈絡の無い悪夢に寝汗も冷える。しかしながら対照的に、窓の外は春の光に照らされて、驚くべきほどに明るいのだ。ゆっくりと身体を起こした。シーツはじっとりと湿っていて、大きな震えが身体を駆け上っていった。休日の真昼間。僕は約束の時間に大分遅れて目を覚まし、頭が真っ白になった。慌てて電話を入れたが相手の気分を随分と害してしまい、うなだれる。
 全身が変に生温く、気分が悪い。シャワーを浴びなければどうしようもない。着替えを取りに立ち上がった時、枕元付近に伏せられている一冊の本が目に止まった。引っ繰り返してしばし眺める。

 『おお、美しいスフィンクスよ
  おお、愛よ。御身があらゆる幸福に
  死の苦しみを交ぜるのは いったいそれは何のためだ
  おお、美しいスフィンクスよ 私に
  この不可思議な謎の意味を明かしてくれ!
  私はそれをあれこれと
  早や数千年も考えてきた』

 浮かんでくる苦笑を抑えることも出来ないまま、僕はその薄っぺらな本を再び放り投げて風呂場に向かった。

 引用 『詩集の序詞』(ハイネ)
■2006/4/26 「必然の向こう」
 運命だとかいう言葉をことさら振りかざすつもりも無い。ただ、ふと頭の端をよぎることはある。長く続いてきた、そしてこれからも続いていくだろう九十九折の道程で、一つ一つの曲がり角を慎重に、しかし自発的に選んできた自負もあるが、そんな根拠の無い思い込みを根底から揺るがすような事象に突然対面することもある。人はそれを必然と呼ぶか。呼称なんてどうでもいいけれども。
 先日、ちょっとした出来事があった。詳しくは話せない。ただ、その降って湧いたようなイベントに僕は混乱し、曖昧に微笑むことしか出来なかった。思わず自分の立ち位置を確認してしまわずにはいられなかったほど、そのことは驚異的で、一方で現実感が希薄だった。
 偶然の集大成の上に必然があるのだ、とは僕の自論だ。では、必然の向こう側には何があるのだろう。考えてみたことも無かった。その場所では、薄甘い『愛』や『希望』や『夢』という青臭さが肯定されるのだろうか。そうであって欲しいと思う。

 ただ一つ分かったこと。想像を絶する事実は存在するが、一度直面してしまえば『それ』は最早日常であるということ。そして日常なら、きっと笑い飛ばせもするし、蹴飛ばす事だってできるだろう。この恵まれた時代の、恵まれた国ではどう生きるのも恐らくは自由なのだから、あえて強くなる必要もないのかもしれない。でも僕は思う。日常を乗り越えて行きたいと、今だに本気で願っている愚かしい自分を否定できないのだから、脈絡無く立ち現れる『必然』にも揺らぐことのない自己を築き上げたい。そうして、力の無かった過去の自分を思い返して、一人転げまわる無様な自分の姿から少しでも遠ざかりたい。それだけだ。

 いつにも増して散文的な内容になってしまった。なんだか最近は滅法駄目な状態だ。

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