200608
■2006/8/3 「八月にゃーにゃー」
 猫がついてきた。夏の夕暮れも過ぎた、八月にしては涼し過ぎるような夜だった。くわえ煙草の煙りの流れがふと変わったような気がして、帰り道の途中で僕は全く気紛れに後ろをそっと窺ってみたんだ。僕の歩幅で丁度五歩分くらい離れた所だったかな、薄闇に紛れるようにしてその猫はちょこんと座っていた。なんだか噛んだら柔らかそうな毛足の長い三毛猫だった。「こんばんは」と僕が挨拶をすると、律儀に「にゃあ」と返す。なんとも礼儀正しい奴だ。丁度独りの家路が寂しかったこともあって、しばらく一緒に歩くことにした。
 夏になりきれない風がそっと吹き付けては、夜の闇の中に消えていく午後八時。茫漠と続く光源の無い田園風景の中を僕達はトボトボと歩いた。平日の中途半端な時間だったからか、道には全然人の気配も無くて、なんだか少し寂しい感じがしていたんだよ。くわえ煙草の煙りが目に染みるたびにそっと横を確認すると、並んで歩く三毛は真っ直ぐ前を向いていて、なんだかその瞳は世界の心理の一端を捉えてるみたいに見えるなあ、なんて、呑気なことを考えてた。
 「ネコさんネコさん」。僕は呼びかける。「にゃあ」と三毛は答える。「例えば初夏の永遠の中で0にも1にも辿り着けない悪夢を見てしまった場合、僕はどうすべきなのかな。死ぬべきなんだろうか。それともヘラヘラ笑ってクシャミでもするべきなんだろうか。なあネコさん。こんな風な気持ちの中で生きて行く事はこの上ない苦痛なんだ。そっと絞め殺してはおくれでないかい?」。ポケットを漁ると、いつの間にか煙草も切れていたみたいだ。財布なんて持ってきてない。溜息をつく気もおきなくて、項垂れながら三毛に話し掛ける。ニコチンが切れ始めたからか、僕の視界だけは元気にグルグル回っていた。「何は無くても真偽を嗅ぎ分ける鼻さえあればそんな馬鹿なことを考えることも無いと思うわ」。眉を顰める仕草の一つもしてくれず、ツンとすました風情で三毛が言う。「そこでシェイクスピアかよ」。思わず突っ込みの手にも力が入る。なんと言ってもシェイクスピアのオヤジ様は僕にとって永遠のヒーローなのだ。そこだけは外せない。しかし、僕のそんな熱い情熱にもどこ吹く風の三毛は、全く悪びれた風も無く、鼻で笑い飛ばしてこんなことを言うのだ。「あら、顔に似合わず博識ね」。「うわー、四足の分際でコイツ超むかつくー。つうかお前、ついさっきまでニャーニャー言ってやがったくせに」。「なんのことかしら?」。あくまでオスマシ。その仕草が実にネコらしくて、僕は不覚にもこみ上げてくる笑いを隠すこともできなかった。
 「実のところね、姫君に化けるくらいは朝飯前なの」。あくまで三毛は三毛のまま、そんな風にも言う。つうかそれ、コクトーじゃん。しかも「猫」ってタイトルの詩だろ? まんまじゃん。ねえねえ、呆れるのを通り越すと、人間って笑えるみたいだよ。知ってた? 僕は知らなかったよ。いや、知らなかったって事にしておいておくれ。ちょっとは可愛げがあった方が親しみやすいだろ? 例えばそれがあくまで類型的なトートロジイだったとしてもさ。あっはっは。アンチリテラシー万歳!
 「また何かつまらないこと考えてるでしょ?」。僕の高尚な思考決壊を完全に無視して三毛は横目でこっちを睨んだ。「ふん。プチブルのホワイトカラーには分からないんだ。第一シェイクスピアからコクトーって節操無くね? あーあ、これだから西洋かぶれは嫌なんだよなあ。次は何を踏襲してくるの? リルケかい? それともキルケゴールかい? 何故かエミリ・ブロンテかい? 嵐の夜に吹き飛んじゃえ!」。「御希望なら十訓抄辺りから引っ張ってくるけど?」。「お願いします。勘弁してください」。
 一事が万事、この調子だった。ふと思い立って、「ねえ君よ、そこまで言うんならさ、僕になにか目ん玉の飛び出るような幸運を運んできてはくれないだろうか」と戯言を吐いてみようものなら、三毛はしれっとした顔で「構わなくてよ。それじゃあ貴方は私に長靴をプレゼントしてくださる?」等と言ってのけるのだ。僕はたまらなく愉快で、煙草が切れていることも、夏の夜が全然夏らしい生々しさを感じさせないことも、イスラエルによる砲撃の為に昨日中東で50人の民間人が死んだこともどうでもよくなった。こんなに愉快なら、もうするべきことは後一つくらいしか思いつかない。たった一つだ。迷う必要もないや。やっちゃえやっちゃえ。
 「ネコさんネコさん」。「にゃあ?」。「今更ネコの真似すんなボケが」。「バァカ。情緒の無い奴」。「うっせ。それよりも是非聞いて欲しいことがあるんですよ」。「なあにそれ? 急ぎだったりする?」。「とっても急いでますけど、別にいつでも構わなくもあるんです」。「じゃあ聞かない」。「いやん、見捨てないでぇん!」。「擦り寄ってくるんじゃない! なによ、言ってみなさいよ」。「女神さま! あんたマジハンパなく神々しいよ! なんていうかゴッド? むしろグッド? そんな僕らの未来はズット? YOYO!」。「うわー、今、殺意っていう物が何なのか具体的且つ直接的に初めて認識したかもしれなーい」。「ちょっ! その爪なんなんすか? 仕舞って! 仕舞ってプリーズ! 僕、柔らかでピンク色した肉球に胸が射貫かれてもう戻ってこれないなあ」。「正気に返ってとっとと先を話しなさい!」。「はい」。
 深呼吸をして、背筋を伸ばして。横目で周囲を確認。お、丁度良く僕の真上に外灯が来てるじゃないか。天然のステージって訳なのかな。もうこれは舞台だね。世界だね。とどのつまり妄想だね。ねえねえ、妄想が無意味だと断じるには時期尚早だと思わないかい? 那辺に向かって歌ってご覧よ、君がこの世に生まれて初めて耳にした優しい歌をさ。懐かしくて、柔らかくて、暖かくて、涙が出て止まらないあの凄まじい祈りをさ。幸せだけを祈って紡がれてきたあの歌をさ。例えそれが幻想にしか過ぎないとしても、幻想に向かって歌われる子守り歌にだってきっと意味はあるはずだから、ね? どうせ自分には生まれつき才能が無いんだとか、そういったつまらない事を言ってふてくされるのは止めようぜ? だって、それってとても失礼だとは思わないかい? 誰にって? 君を生んだ両親にだよ!
 さあ、行くぞ! スポットライトを浴びて、身だしなみを整えて。準備はばっちりだ。心構えも出来たし、今夜は髪型もキマッてる。行くしかないっしょ! 一つ深呼吸した後で、僕はこちらを見上げてくる美しい三毛に向かって恭しく腰を折った。

 「僕と、結婚してください」
 「にゃー?」
 「てめえっ、この期に及んでそれかよ?!」

 夏になりきれない八月の初め。ここ仙台ではいいかげん梅雨明け宣言も出たのかな。それすらも分からない、少しだけ肌寒い夜の一幕劇。こんな風な空気の中で語られる夢物語の中の出来事なら、児戯そのもののようなつまらない空想も悪くは無い。そうだろ? いや、分からんけどさ。
■2006/8/7 「反実仮想」
 無いものねだりを繰り返す事に疲れて見上げれば八月の月だ。そろそろ満月になるか。薄く垂れ込めた雲に包まれて奇妙に黄色く浮かぶ。ああ、あの月はいつか見上げた瞬きだ。情熱を持て余しながら睨みつけた月そのものだ。そう、今となっては夢も希望も最早潰えたのに、変わっていくのは己ばかりで、世界は何一つ変わらないのだ。苦笑すら漏らす気力が無い。
 退屈なことも下劣なことも、そこに在るというだけで嬉しかった年齢も過ぎて、今となってはひたすらに日々を見つめているだけだ。息を詰めて見開いているだけだ。誰かの戯言に付き合う必要はまだあるのだろうか。僕は静かに暮らしたい。まるで隠居だな。まだまだこれからだって言うのに。
 そういう年齢のせいか、それとも僕がグズグズしてるからだろうか。この場所はとんでもなくエゴが蔓延していて、どこに逃げても息が詰まりそうだ。底の浅い人生観を聞くのもいいかげんに飽きたし、主体性も無いのに主張だけは一端の馬鹿な大人の話につきあうのも嫌気が差している。黙れ、と言ったところで雑音は留まることを知らないだろう。
 静寂を理解しない、無象の人の群れの中で、感極まり奇声を上げるような気持ちが最近よく分かるようになった。なにもかも崩壊してしまえ。僕は淵にはまり込んでしまった。自力では中々抜け出せないから、そんなことを思う。淵には何が詰まっている。積年が。諦観が。朝を待つまでも無く夜に安住して、頭を叩き割り脳漿をぶちまける愚行を讃美するような、どこまでも暗く深く続く壮大な一大妄想だ。

 もし、〜だったら(良かったのに、現実はそうではない)。

 そんな絶え間ざる無意味なリピートを頭から締め出したら、僕は無言でやるべきことをやろう。生きることに意味を探してやまない人は、きっと死のことについて真剣に考えてみたことが無いんだろうな。よしんば考えたことがあっても、答えにまで行き着いたことなんて無いんだろうな。単純な話だ。付き合う必要も無いし、心を痛める必要も無い。笑い飛ばす気にもならない新興宗教や自己啓発セミナーに執心する必要も無い。退屈でしょうがないけど、もう少しだけ眺めたら、反実仮想の浅瀬の中でしばし、まどろもうか。

 さて、上に書いてきたような事を本気で考えて生きて来られたなら、今ここでこんな事をしていなかったと思うのだが、どうか。可逆性の欠如? シンクロニシティの強迫観念? つまらないことはもうやめにして、そろそろ黙ってくれないか。退屈で欠伸が出るよ。
■2006/8/22 「君に似ていた」
 夏はゆっくりと死んでいく途中にある。曇りがちの空。風に湿った匂いが混ざりつつあった。夕立が来るのかもしれない。どうしてだか急に麦藁帽子が欲しくなった帰り道。夏影は音も無く薄れていく。夕暮れの河川敷は人の気配も無く、ただとうとうと河の流れが諸行無常を飽かず体現していて。見回すことも見上げる事も出来ず、僕はそんな風情から俯き、目をそらしていた。
 夏は間もなく終わる。そういえば昨日甲子園も終わった。見ていないので結果は知らないが、通りがかった道の途中で立ち話をしていた主婦達が、そんな話をしていたのを耳にしていた。終わるという事が何を意味しているのか、まだ僕にはよく分からない。明確な区切りはどこにでもあるようで、その実、どこにも無いのだ。夏が終わる。それでも世界は続いていく。君が亡くなった後にだって、こうやって世界は続いている。僕の認識が途切れるまで、きっとそれは続くのだろう。
 人の気配が無い晩夏。夕暮れの入り江。見回すことも、探すことへの気力も削がれて、僕は呆然と道に伸びた影を踏む。音も無く、夕焼け色に染まった世界は赤く。どこまでも孤独で、反面なんでもないこの時間。それが何かということを捉えることを諦めて笑ったとき、その声の震え方が在りし日の君に似ている事に初めて気付く。夏影と同じくして揺れる心を抱えて、僕は久しぶりに声無く泣いた。

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