200702
■2007/2/10 「slow rain」
 ここのところ、随分と削ぎ落としている。自らに関わることの多くを。関わる中で、どうにも無駄に感じられるものを。時には、必要かもしれないものですらも。思春期に入ったばかりの少女のような潔癖さで、削いで削いで削いで血塗れになっていく。何ていうことでもない。身軽になりたくなった。いつだって理由なんてものはそんな程度でしかない。無理やりにそれっぽい言い訳を考えるなら、「疲れた」のかもしれない。だけど、「何に?」と聞かれると、俺はもう俯くことしか出来ないのだ。
 目前に広がる多くのことに価値を見失ってしまった。目前に広がっていた多くのことはいつしか通り過ぎて、今はどうにも慣れない新しい要素に包まれている。真綿で首を、という言葉をそっと思い出してしまいそうな閉塞感だ。こんな風に惨めな気持ちになるのには、きっと季節も関係してるんだろう。きっと年齢も関係してるんだろう。きっと、きっと、……他には何をあげればもっともらしく聞こえる? 理由はどうあれ、価値を見出せなくなったなら、そしてそれの重さに耐え切れなくなったなら、削ぎ落とすのはきっと自然なんだろう。

 こそぎ落とした自分の削りカスで埋まる独りの部屋に、突然鳴り響いたのは携帯電話。着信か。着信だ。ぼんやりとそれを見つめる。アドレスも昨日全部消してしまったから、それが誰からなのか皆目見当がつかない。ぼんやりしたまま通話ボタンを押す俺の顔は酷く間抜けだったに違いない。そして、ああそうなんだ、受話器から吹き出してきた不用意な棘は、忘れたくてしようがなかった悲しいことを丁寧に一から順に伝え直すのだ。
 意識は空白へと没入して、部屋には夕闇。窓辺で頬杖をついたまま、もう何も考える気力がない。雪になりきれない雨がゆっくりと視界の端に落ちて、偏頭痛をそのまま形にしたような色したアスファルトの上に転がる。更にその上から緩慢に過ぎる無意識の粒子が幾重にも覆い被さって行くのを見て、酷く泣き疲れた。
■2007/2/13 「どんなに小さな終わりにも」
 悲しいことを悲しいと声高に主張して平気な顔でいられるほど、もう子供じゃないんです。嫌なものをはっきりと嫌だと言うことも時には必要だって知ってはいるけど、やっぱり我慢しなくちゃいけない場合もあるんです。でも、一方でやはり思ってしまう。ゆっくりと死んで行くくらいなら、立ったまま無意識の世界に行きたい、と。
 「始まるって事は終わりへ向けた始まり」だなんて、自己卑下に塗れた顔で語りたくはない。生きるってことは終わりのための下準備じゃない。事実はどうであってもそんな風には考えたくない。嫌だ嫌だ。ないない尽くしでベソをかきながらぼんやり夕焼けを見ていた幼い日、泣きすぎて膜がかかったような思考の奥で、何かが弾けた。
 どんなに小さな終わりにもやはり何かしらの心の動きがあって、それは気の利いた人達の間で「ドラマ」なんて呼称されたりもして。ついつい「誰もが劇的な瞬間を過ごしてるんだよ!」なんてネジの緩んだ寝言を叫びたくもなるけど。日が暮れて興奮が冷めた頭には、目前に置かれた一本のビールの方が大切だったりするね。僕達は人間です! だからこそ人間なんです! と言い逃れてさえも、優しい人達は目を細めて許してくれるだろうか。許すことが美徳な人々は許してくれるだろう。感動に泣き伏せる振りした腕の中で、留め切れなかった笑いを押し隠そう。
 建前は重々承知しているし、今日も明るい太陽の下、街を蠢く人々それぞれの社会的立場も考慮に入れなきゃってことは身に沁みて実感しているつもり。でもさ、だからといって、こっちまでその分かりやすいテンプレートに乗るとは限らないんだぜ? 悲しいことを悲しいと泣き叫ぶのはこりごりだし、ましてや泣き真似なんてしたくないんだ。安らかな時間を希望しながら、やっぱりお祭り騒ぎにも参加したいと思ってる。同じくらい切実にさ。
 どんなに小さな終わりにもドラマがあるのかもしれません。でもそれに興味がない僕は、どんな形であれ静かに日々を見つめていましょう。これはそんな退屈な実験なんです。どんなに偉大な指導者でも頭を撃ちぬかれたらただの肉塊なんです。それならどんなドラマだって風化して行って当然なんです。ああ、また日が暮れる。今日も終わっていく!

 「終わること」に何の期待もできなくなった大人の俺は、知り合いの元に先日生まれたばかりの小さな女の子の、おもちゃみたいに小さな手のひらをじっと見つめて、ふと、本当に大切なことが何なのか分かったような気がした。うん、そんな気がしたんだけどね。同時に、それは酷く小さな、とるにたらないことのような気もしたから。僕は彼女が喜ぶからといっただけの理由で、翌朝両腕が上がらなくなるほど「高い高い」を繰り返した。
■2007/2/16 「ありがとう」
 お礼の言葉はいくら重ねても物足りない。きっとそれは謝罪の言葉と同じようにだ。どちらがより切実かは分からないけれども、どうせならお礼の方を幾らかでも多く言えるような生き方でありたい。
 向かい合う誰かへ。……いいや、出会いは現代に至ってもう少し多様化した。電気の海を、幾つもの死んだ世界を通り抜けて、意識的に放たれた2byte文字の言葉はどこまでも泳いでいく。そうだ。データの世界を流れていく。それは、0か、1かの運命的な二進法。「在る」か、「無い」か。僕らはここにいる。そして誰かがそこにいる。僕らは「在る」。だからこそ、この無機質な夢の中にこんなにも必死になって言葉を放流するのだ。

 さあ、そろそろ時間だろうか。

 ありがとう、と。たった5つの響きを君に贈ります。データに乗せてそっと送ります。音でもなく、気配ですらなく、モニタに小さく表示されるだけの文字列に、ありったけの気持ちを込めて。実際に出会ったわけでもなければ、言葉を交わしたわけでもなく、名前も顔も性別も年齢もどこに住んでいるのかさえも知らない、今日もどこかで懸命に生きている君におくります。シンプルな言葉っていうのはこういう風な場面において、酷く的確です。これ以上は有り得ない。勝手に満足してこちらは微笑みます。
 ありがとう。またどこかで。どこかに在り続けていれば、いつか擦れ違うようなこともあるかもしれませんね。知らない街の片隅で、名も無い国の草原で、終わりかけている時代のど真ん中で。もし出会えたなら、どうか微笑んでくださいね。そして何か言ってやってください。数限りない死んだ世界を潜り抜けてきた、在り続けてきたということの意味を、長い長い返信を聞かせてください。できれば、そっと耳元で。

 それでは、また。

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