■2011/03/21 『揺れ続けて』
いつの間にかあの巨大な地震から10日経っていて、その事に素直に驚いている自分がいて。僕は、この未曾有の大惨事の当事者でありながら、何も語る言葉が無いことに気付いた。いつの間にか、いや、もう本当はしばらく前から分っていたことだけど、既に僕は本質的に物書きではなくなっているんだろう。
あれから数日、毎晩光の無い地上から空を見た。これほど暗く、明るい故郷の夜空を僕は知らなかった。知ることがあるとは思わなかった。しかしその事実は、音の無い夜と波長を同じくするように僕の中で響きはしなかったらしい。
僕を揺らす物は年々目に見えて磨り減っていくようだ。これが静謐を望み続けたその結果であるというのなら、甘んじて享けてしまおうと思うのだけれども、どうしてだろう、どこかで納得できていない自分がいる。時間が過ぎて零れ落ちていった何かが、本当に何だったのかを思い出せなくなったことにどうやら気付いてしまったらしい。僕は失っていきたかったのだ。失っていかされたかった訳ではないのだ。
あまりに強大な力で沢山の物を奪っていった大災害を、ようやく来た電気の下でぼんやりとテレビを通して見つめ続けているけれども、これを受け止めてしまえるほど、僕の中の空白は茫漠とはしていないようだ。失っていかされた数限りない人のことを思うと、何だか頭の隅が濁る。僕に残された幾つかの言葉では、その汚泥を最早切り出し得ないようだけれども、だからこそなのか、何だか大声で誰彼構わずに泣き叫んで回りたいような、小さくて固い心持ちだ。
あっちへ、こっちへと揺れ続けて僕は間もなく三十になる。間もなく、どうしようもなくなる。ああでも、水を求めて俯いたまま歩いた酷く狭い視界の端に、いつの間にかオオイヌノフグリが風に吹かれて揺れていた。それを照らす日差しは驚くべきことに既に春の装いを纏っている様でもあって、僕は無様に混乱し、脱力し、膝が砕け、口角は緩み、声にならない声で空を仰いだ。海の方で空は黒く燃えていた。鳴り止まないサイレンの彼方、遠い山の方で残雪はまだ白くへばりついていた。頭上で絶え間なく唸るヘリの合間から春が何かを待ちわびていた。地上で僕はやっと泣けた。情けなくふらつく心の底のヘドロを、やっと搾り出すことが出来た。
どうしようもない事を、どうしようもなくなくしてみよう。手元に無い物を手繰り寄せて、それでも遠ければ自転車で汲みに行こう。明かりは、朝になればきっと大丈夫。冷たい手は、春になればきっと大丈夫。言葉未満の声は、どうしてやろう。僕は、間もなく本当に三十になってしまう。僕は、間もなく本当に春になる。僕は、まだ本当に生きている。生きて、揺れ続けているのだ。
実は未だにちらほらとお問い合わせを頂いております。
お久しぶりです。後藤あきらです。
まさか覚えていて頂けるとは思わず、驚くと共に感謝しています。
私は未だ在仙ですが家族友人共に無事に過ごしています。
震災の直後、急に降り出した猛吹雪に世界が白くなっていくのを呆然と見守りました。
何も無くなった海岸線を自転車でひたすら走りました。
誰もいなくなった建物が西風に鈍く軋む音を聞きました。
少ない水や物資を求めて列に何時間も並びました。
何年も連絡を取っていなかった友人と蝋燭の下で夕飯を囲みました。
見知りもしなかった人と膝を交えて語り合いました。
バイクで遠い親戚の安否を確認に行ったとき、
二時間近く走行して一度も点灯している信号を見ませんでした。
根も葉もない暴力的なデマが外から流れ入ることに胸が痛みました。
やっと映ったテレビがしかしながら原発の事ばかりを報じていて、
世間の関心が何処にあるのかを改めて知りました。
海沿いの街で三名の御遺体を瓦礫の下から掘り出し、悼みました。
ずっと懐に忍ばせていたデジカメは結局一度も取り出しませんでした。
二週間ぶりに入ることが出来た風呂に張り詰めていた気持ちがやっと溶けました。
何処で何をしてもどんな情景を見ても「僕」は「僕」でした。
上の『揺れ続けて』は被災して丁度十日後に私が書いたものです。
ご覧の通り、すっかり昔のようには書けなくなってしまいました。
しかし不思議とそれについては何の感慨も湧きません。
上の文章についてはしばらくの間をもって掲載をやめ、
また静かに沈没していようと思います。
どうもこんな日々の越し方が性に合っているようです。
おもてにはどうやら今年もまた春が来ました。
それではまたどこかで。
追伸。
大変遅くなってしまいましたが、アサイさん、御結婚おめでとうございます。
本当におめでとうございます。
どうか末永くお幸せに。
2011.04.22 後藤あきら
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