『嘘』



『昨日、駅で君のこと見かけたんだよ』
それが五年ぶりの電話の理由らしかった。
無機質な受話器の向こうから時折ノイズ交じりに聞こえてくる声は、
僕の記憶の中の彼女よりもずっと華やいでいて、
ああ、幸せにやっているんだな、と、
変に感慨深い物があった。
『ケータイの番号知らなかったからさあ、
 昔の手帳を大捜索しちゃったよ』
彼女が埃まみれになりながら、
あの狭い部屋で小さな手帳を探している、
そんな姿を勝手に想像して笑えた。
もしかしたらもう、あの沿線の築10年、
六畳間、八畳間二部屋からは抜け出したのかもしれないけど。
『ところでなに聞いてるの。なぁんか気取りすぎてて
 さっきから鳥肌立ってるんだけど』
ラフマニノフのピアノ協奏曲2番だ、と言うと、
『美味しそうな名前ね』と答える。
ビーフ・ストロガノフあたりでも想像したのかもしれない。
ノフしか合ってないけれど、彼女ならそんな所も愛らしいと思う。
『昔、そんなの聞いてたっけ』
「いや、最近かな」
『そか』
オーディオの音量を絞ると、それに反比例するかのように、
『今から会おうよ』という大きな声が聞こえた。
「今から、か」
壁に立てかけたデジタル時計は憂鬱な緑の発光で、
9月18日の午後9時27分を伝えていた。
しばし考えて、デスクの上に広げられたままの楽譜を見る。
「ごめん。今夜は無理だ。
 明日、朝一からスタジオセッションの仕事がある」
その為の準備をしていた所だった。
『セッション・・・』
「うん?」
『まだ、やってたんだね』
電話越しに、彼女が悲しい顔をするのが見えた。
『昨日ももしかしたら仕事の帰りだったの?
 ギター、背負ってたよね』
「うん? ・・・ああ」
『そか。まだやってたんだ』
本当は、本来来るはずだったスタジオ・ミュージシャンが、
急な体調不良で来られなくなってしまい、
スタジオ・エンジニアをやっている知人から無理に頼み込まれた、
というのが事情だったが。
あえて、そのことには触れなかった。
『あの頃からギターばっかりだね』
「・・・そうだね」
彼女と出会い、短期間ではあったけれども同棲していた頃のことは、
もう記憶の中で最も深い階層の中にある。
そこに無理に触れようとすれば、
かろうじて形を成していたものが次々と溶けていってしまいそうなほど、
それは遠く危うい過去だ。
「明日の夜、22時以降なら会えると思う」
『そか。うん、明日で良いや』
「悪い」
『良いよ。私も急だったし』
無理に作った明るい声が痛くて、
椅子の背もたれに体を預けたまま、天窓越しに月を見上げた。
満月には程遠いほど頼りない月が冷たい光を放っていた。
静寂が束の間二人の間を流れた。
『明日、どうしようか』
「リクエストある?」
『ん〜。どこでもいいよ。落ち着いて話せるなら』
「じゃあ、あのラウンジは?」
『うん。そこでいいよ』
「予約、入れておく」
何度と無く交わした古い会話を再生しているかのような、
そんな錯覚に襲われながら、立ち上がる。
『色んなこと、あったよ。全部話したいと思う』
やっと彼女の写っている写真を見つけた所で、
『一晩じゃ足りないかもね』
あっけらかんとした声で彼女が言う。
『君はあんまり変わってなかったから安心したけど』
「そか」
『うん』
また、少しの沈黙。

やがて、
「それじゃね」
と僕から切り出す。
『それじゃね』と君は呟く。

無言になってからも、しばらく電話は繋がっていたように思う。
やがて受話器の向こうから、今まで聞いた中で一番寂しい、
プツッ、という音が聞こえた。
直前、しゃくりあげるような声が聞こえたのは、
きっと耳鳴りかなんかだったのだろう、と、
そう思いたい。

僕は嘘をついた。
そしてきっと彼女も。

僕は昨日駅になんて行ってない。





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