1st. day 「冴えねえ」

 田坂幸彦(たさかゆきひこ)がそれに気付いたのはただの偶然だった。暦の上ではすでに冬だが、まだどこかに秋の香りを残す風が吹く11月の街の昼下がり、その片隅で、ふと視界の端を閃いた物があった。特に興味を惹かれたわけではない。だからその白い物を追って、わざわざ上を見上げてみたのはただの反射のような物だったのだろう。
 世界の必然が、もし偶然の集大成の上に成り立っているただの結果でしかないとするならば。それはいつもどこか皮肉で、悪戯めいていて、少々タチが悪い。しかしまたその一方で、まるで児戯にも等しい『必然』は、どこか運命めいていたりもするものだ。時には趣味の悪い冗談にしか思えないこともあるが。まあ、そんなことはどうでもいい。
 職業柄視力は悪くない田坂が見上げた視界が捉えた物は、100mほど先にある街の救急を一手に引き受ける巨大な総合病院と、その屋上の柵に凭れかかって気だるげに煙草を吹かしながら地上を見下ろす白い入院着姿の少女だった。

 北の地方都市。人口は昨年やっと百万人を突破した。政令指定都市という割りにその印象、存在共に希薄で、全国でも稀有な一種の静けさを持っている。街の誇りといえばせいぜい道という道を多い尽くす豊かな街路樹くらいだろう。だがそこに住む者達はみな、わさわさと健康的に生い茂る木々を気にかけている様子は見えない。秋になり神経質なまでに等間隔に植えられたその伸びやかな街路樹が葉をいっせいに落とし始める時期にもなれば、地元商店街の店主たちが総員面倒顔で早朝に落葉を始末している姿が確認できる。緑の都などという取ってつけたような謳い文句がその寒々しさを増長しているようにも見えた。街の中心部にある総合オフィスビルの最上階、地上123mという狙っているのか偶然なのか分からない高さにある展望台フロアから街を俯瞰すれば、碁盤目状に区画整理され、華やかに栄える駅の西口方面と対照的な東口周辺を確認する事が出来る。戦後、空襲で大きな被害を受けたこの街が始めた復旧作業が西口より始まった時から、東口の衰退はあらかじめ予定されていたような物だと訳知り顔で話す老人が街にはいる。大型デパートやサービス業種関係の店が所狭しと並び騒々しい西口方面に対して、東口には後発の企業ビルや全国大手予備校などが無表情に軒を連ね、立ち歩く人間の多くもそれらに関連した者ばかりである事から、どうにも簡素な雰囲気を醸し出していた。
 翻って西口を見渡してみれば、幸いにして未だ衰退を知らず、増殖し続ける街の寡黙なエネルギーが垣間見られる。終わりの見えない深刻な不況の中、弱き者は淘汰され、街には消費者の利便性と欲望に忠実に応え続ける新時代の強き者が残った。ネオン華やかなりし夜の街角では、歓楽街やそれに宿り木状に生息する風俗店のなんとも逞しい灯がともり、日々溜まり行く心的疲労の捌け口を安易に求める人々を吸い出しては吐き出してを延々と繰り返し続けていた。美しき北の都のもう一つの姿がそこにはある。
 話を戻そう。
 街を西と東とに長く分ける広大で騒々しい五車線のメインストリートを、街の発展の中心でもある駅ビル西口前から北へ500mほど。途中、三年程前に郊外型総合モールの苛烈な侵食に屈し、あえなく憂き目を見る羽目になった潰れて久しい映画館がある、産業道路との合流交差点を左に折れてしばらく歩いた所。そこにその総合病院はある。大学付属病院と銘打たれたその広大な敷地面積を持つ象牙の塔に含まれる多種多様の病棟には、およそ人間が思いつく限りの科が存在していた。

 あの日、外来時間がまだ終わっていなかったことが幸運だったのかどうか、と、後に田坂は考えてみた事がある。考えてみはしたが、途中で馬鹿らしくなり、酒をあおってそのまま寝てしまった。それくらいその出会いはいいかげんで、偶然に満ちており、やや神秘的でもあり、やはりどうでもいいことであった。

「入院? 心療内科で?」
「珍しいだろ。最近ではどこの病院も心療内科と銘打ってる科は外来がほとんどで、入院するような重度の患者はたらい回しにされたあげく隔離されるのがオチだ。まあ、そこはさすが県内屈指の大病院様ってわけ。とはいえ、ここの実態は精神科なんだけどな」
「精神科・・・」
 改めて少女を観察してみる。しかし、目の前で気だるそうにこちらを睥睨している少女からは、どこからも狂気の匂いを感じ取ることができなかった。田坂はその職業の関係でこれまで多くの人間を見てきた。人を見る目は随分と養ってきたつもりだ。しかしそんな田坂の心中とは関係無しに、少女は話を続けた。
「精神科っていうと気にする患者の家族が多いから、体裁を繕っているってこと。涙ぐましい話だ」
「ふむ」
 真新しい屋上の柵に背を預け、自嘲気味に話す少女から視線を転じ、田坂は沈み行く太陽を眺めた。ここがもし精神科の病棟なら本来、屋上への扉は決して開放されてはいないはずだろう。それならば、なぜ。田坂はその疑問をほぼそのまま目前で煙草を吹かす少女に投げかけた。
「なんだ、気づかなかったのか? ここは心療内科病棟じゃねえよ」
 どういうことだ。
「心療内科棟は隔離されてるからなあ。ほら、あそこに見えないか?」
 少女が指差した病院の広大な敷地内の一角には、一見してなんの用途で存在しているのか知れない簡素な建物があった。しかしなるほど、注意深くその周辺を見れば、敷地内にも関わらず少々高い塀がその建物を覆い、入り口自体もなにやら堅固な印象を受けるものだった。だが、もっともその特徴が顕著なのは幾つか見える窓であっただろう。それはまるで映画の中でいつか見た隔離施設そのままに、全ての窓という窓に格子と思われる物がはめられていた。
「というと、お前は」
「ご名答。勝手に抜け出してここに来てるってわけ」
 田坂はもう一度心療内科棟に視線を転じた。確認するまでもなく、その建物にはとても自由に出入りできそうな気安い空気は存在していなかった。
「簡単に言ってくれるが、抜け出すにはなかなかの労力が必要そうだが?」
「いやあ、それがまたちょっと事情があってね」
 事情が何かについてははぐらかしたまま、少女は口にくわえた煙草をピコピコと上下に振ると、にやりと笑って見せた。
「ところでおっさんさあ、なんでここに来たわけ? 誰かの見舞いというわけでも無さそうだし」
 ここ、とは言うまでもなくこの屋上のことだろう。この際、おっさん呼ばわりについては黙殺することにして、田坂は少女を眺めた。
「どうして見舞いじゃ無さそうだと思う?」
「ああ〜? 見舞いに来る連中っていうのは屋上になんて独りで来ねえよ。それに第一さあ、おっさん、身軽過ぎる。こういう病院に来る人間ってのはもっと何かしら『重たい』印象なんだよ」
「ほう」
 乱暴ではあるが、なかなかの観察眼だと田坂は素直に思った。
「んで? まだ質問に答えてないぞ」
「ここに来た理由か・・・」
 語尾を濁らせた田坂は胸ポケットから煙草を取り出して、火をつけた。深く吸ってゆっくりと吐き出す。傾いた陽射しに染まって、紫色に透き通っていくその流れを無意識に目で追って、ああ、紫煙と言うのはこういうのを言うのだな、と、全く脈絡なく思った。
「象牙の塔の屋上から見る地上は、やはり欲望に塗れた景色としてこの目に映るのか、と思ってな」
「15点」
「100点満点でか?」
「当然」
「こりゃ厳しいな」
 にこりともしない少女に薄く笑って見せてから、田坂は煙草を踏み潰した。
「お前が見えたんだよ。下の道からな。なんだ、平日の夕暮れに煙草をくわえた年端も行かないガキが黄昏てるじゃねえか。こいつはちょっと行って一言叱ってやらなければ、と思ってな」
「ご苦労なことだ」
「道を踏み外そうとするものには手を差し伸べろ、っていうのが死んだママの遺言だったんだ」
「クリスチャンだったのか?」
「いいや? まだ信州のド田舎でぴんぴんしてる」
「5点」
「10点満点でか?」
「もちろん100点満点だ」
「留年確定らしい」
「放校処分にならないだけマシだろう」
「全くだ」
 影の長く伸びる総合病院の屋上。二人は声を潜めて笑いあう。
「さて、そろそろ帰らないと看護士がヒスを起こすなあ」
「大分遅くなってしまったな」
 田坂がこの屋上を訪れてからどのくらいの時間が経ったのか。西の方角には、一日の勤めを終えた太陽が気だるげに山の端へとその姿を没しようとしていた。くわえていたタバコを踏み潰すと、少女は先に立って屋上から棟内に続くドアに歩き始める。後から追いついて肩を並べた田坂が、ふと一つ、聞き忘れていたことがあったことに気づいた。
「お前、名前は?」
「おっさんはなんて名前なんだ?」
「俺か。俺は田坂幸彦という」
「ふうん。こんな時間にうろついてるって事は、おっさん、今流行りの失業者ってやつか?」
「失敬だな君は。仕事の途中だったというだけだ」
「ほう。その仕事というのは?」
「街の暗黒面を華麗に渡り歩く、俺は孤独な探偵業一匹狼さ」
「はっ」
 吐き捨てるようにして、少女。
「探偵ねえ。しかも一匹狼と来ましたか」
「なにかいちゃもんでも?」
「金が無くて助手が雇えないだけなんじゃないのか?」
「馬鹿を言うな。これでもこの街では顔なんだぞ」
「冴えねえ風貌してよく言うぜ」
「容姿に関してはご意見無用と言っておこうか」
 田坂は自身の纏うよれよれのコートを見回して苦笑した。一応、一張羅でもあるのだが、長年着古してきた一品なので、どうにもくたびれた感じはぬぐえなかった。
「私はユイ。唯一つ、って漢字を書いて唯っていう」
「唯、ね・・・。見たところ中学生のようだが」
「なんか文句でもあるのか?」
「いや。ただ、一つだけ要求したいことはある」
「なんだよ」
「せっかく名前を名乗ったんだ。おっさん呼ばわりはそろそろやめて欲しい」
「田坂、田坂でいいか?」
「ああ」
 胸を撫で下ろすような仕草をして見せた田坂を一瞥して、声を殺したまま笑った唯は、誰に向けるでもないような声音で一言、
「冴えねえ」
 と言い捨てた。

 秋の気配が色濃く残る11月。緩慢な成長を続ける北の地方都市の一角に息づく巨大な総合病院の片隅にある屋上。そこで二人は出会い、友人になった。世界にもし必然というものがあるとすれば、きっとそれは偶然の集大成みたいなもので、どこかの誰かが運命という言葉を発明したせいで生まれた、虚しい響きだろう。だが、彼、彼女は今日この場所で出会った。それに意味を見出そうが、無意味な擦れ違いだと吐き捨てようが、それはどうでもいいことであり、恐らく二人も気にはしないだろう。冬の初めの透明度を増した夕日が屋上を後にする二人の背中を照らしていた。それは何かの始まりを告げているかのようでもあり、また同時に終わりを告げているかのようにも見えた。だが実際そのスポットライトは、そろそろ中年に差しかかろうかというくたびれた男と、毒を含んだ刃物を世界中の喉元に突きつけるような雰囲気を持った生意気な女子中学生の二人の姿をぼんやりと映し出しているだけだった。
 この物語はそんな場所から始まる。On Your Mark。位置について。ゴールなんてどこにもありはしないのだが。

To be continued.



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