『夏の日、そしてあの海』



  T

 その少年の胸に、密やかな「恋」が生まれたのは、高校に入って初めての夏休みの事だった。
自宅から自転車で十分ほどの距離にある、人のめったにこない、
地元の人間だけが知っているささやかな海岸の砂浜を、ふらふらと歩いていた時、
彼は、同じように特に当てもないように向こうから歩いてくる
白いワンピースを着た少女に会ったのだった。
彼は少女が同じ中学に通っていた事を知っていた。
クラスが一緒になった事もなければ、口を利いたこともなかったので、
この時、彼は少女がなんという名前なのかさえ知らなかった。
 激しく輝く夏の太陽が辺りに跳ね返って、生命はみな燃えるようだった。
少女も彼に気付いた。
静かに波が寄せる音の中、少年と少女は何となく会釈し会ってすれ違った。
 瞬間、ほのかに甘い香りが鼻孔を突いた。
少年は無意識のうちに振り返って、どこかへと一人歩いていく少女の後ろ姿を見た。
辺りの全ての風景が色褪せたかのようだった。
 その中で、少女の真っ白なワンピースだけが、やたらと眩しく浮き彫られているように感じられた。
・・・海からの風にあおられた長いストレートの髪の間から、ちらと見えた輝くうなじが、
目の奥に焼き付いた。
 少年は不意に息苦しさを感じて、胸をぎゅっと掴んでいた。
とまどいながらも、その目は少女の姿から離せなかった。
 それは、気付きもしないほど微かでささやかな、けれど、純粋な「はつこい」だった。

  U

 二年の時が過ぎた。
 彼は東京の公立大学に進学するため、目下勉強に明け暮れていた。
高校生活も佳境だった。この二年半の年月、様々な経験をし、親友と呼べる人間もでき、
取るに足らないことで悩み、何もかもが楽しく、また、少し憂鬱で、
日々は濃密に、しかしとてつもなく早く流れていった。
 少年は、もはや青年になっていたが、自身それすらも気付かないほど、
日々は忙しく、また有意義なものだった。
 しかし彼はいつからか、そんな楽しい日々に何か物足りなさを感じていた。
 あの日以来、彼の胸の奥では、砂浜で会った少女の姿が、
時が過ぎるのに比例するかのように大きく、そして鮮明になっていった。
 あれからすぐにあの少女が青年と同じ高校に通っていることを知った。
一年生の間は、学校の廊下ですれ違うことが何度か有り、
そのたびに軽い胸の疼きを覚えていたが、二年になり、理系のクラスになると、
文系に進んだらしい少女とは、校舎が違うため、滅多に会うことが無くなった。
彼の胸の疼きはますます強くなり、眠れぬ夜が幾度か有るまでになった。
 最終学年にもなると、辺りでも幸せそうな恋人同士の姿が多く見られるようになっていた。
彼も二年の終わりに、ある少女から告白されたが、断っていた。

  V

 眩しい、眩しい「最後の夏」が来た。
受験生にとって、夏休みはいつの日でも自分の学力をどれだけ上げられるかに費やされるものであり、
青年もまた例外ではなかった。
 彼は勉強に倦むと、よくあの砂浜を歩いた。
気晴らしが主な目的だったが、それは建前であることは、自分がよく分かっていた。
彼はやはり、心の中で、またここで少女に会えないだろうか、と思っていた。
あの時のようにまた、光を受けて輝く少女の白い服が、自分の目を刺さないだろうか、と。
 ・・・それは結局かなわなかった。
砂浜の端から端まで歩き果たした青年は、いつもため息を吐くと、
砂浜に腰を下ろし、遠い水平線の彼方を見つめるのだった。

  W

 青年は大学に合格し、少女に告白した。雪の降りしきる寒い日だった。
 少女の黒いコートが、雪で白く染まっていたが、日は厚い雲で覆われて、
 世界は、輝いていなかった。
 「ごめんなさい」
 気のせいか、少し悲しい目をして、
 消えてしまいそうな、かぼそい声でそう言うと、少女は小走りで去っていった。
 雪がいつまでも、いつまでも降る、曇っていて静かな一日だった。
 後に、彼の告白の前日に、彼の同級生がした告白を少女が受け入れ、
 付き合い始めていた、という事を知った。

  X

 東京での大学生活も、いつの間にか四年目になるほどの年月が流れていた。
 彼は卒業を来年に控え、なんとか就職先も見つける事が出来た。
後は膨大な長さの卒業論文を残すだけだったが、気は楽なものだった。
 夏休みに入って、彼は帰省した。
 通例どおりの墓参りと、親戚への挨拶も済み、高校時代の友人たちと会って、
酒を飲んだりしているうちにお盆も終わり、翌日には帰らなくてはならなくなっていた。
 簡単な荷造りを終えて昼食を取ると、もうすることが無くなった。
 不意にぽっかり開いた時間に身を流していると、
蝉の声が喧しく、太陽の光は何もかもを輝かせるのを感じた。
そして、遠く潮騒が響いているのを聞いた。
 彼はふと、あの砂浜に行ってみようと思った。

 思えば、ここにもずいぶん来ていなかったことに青年は気付いた。
 あの少女に告白した冬の日に一度来たが、それからは、まるで無関心を装うように、
その存在を忘れているかのようにしてきた。
 こちらに帰ってくるたびに、色々な人間から、色々な人間の風の噂を聞く。
彼女の噂も何度か聞いた。あの少女は高校卒業後、地元の公立大学に進んだという。
 付き合っていた相手とは、一年の時に別れたらしい、とも。
 焼けた砂浜を歩きながら、青年は苦笑していた。
気付くと彼女の噂ばかりを熱心に聞いていたような気がした。
苦笑しながら、海を見た。
 水平線と空の境は解らなかった。
 まるで、どちらもお互いと溶け合っているかのようだった。
陽炎のように、ゆらゆらと揺れながら、溶け合っているようだった。
あの日もこんな風だったかと、思いを巡らしたが、解らなかった。
そうだった気もしたし、違かった気もした。
 ・・・ただ、碧かった。

 ぼんやりと遠くを見つめる青年の視界のすみに、何かが瞬いた。
 視線を巡らすと、向こうから真っ白なワンピースに身を包んだ人の姿が、
一人陽炎に揺れる砂浜をゆっくりと歩いてきた。
 青年は息を詰めてそれを見守った。人影も、彼に気付いたようだった。
そして、微かに微笑んだようだった。

 少年は、もはや青年になっていた。
 少女は、青年の心の中の少女よりも、遥かに美しい一人の女性になっていた。

 夏の、本当に暑く美しい一日。
 これはそんなありふれた日の、本当にありふれた、それだけの話。


1997年作品



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