『君の待つ春へ』   2005年度 一語100%エントリー作品

「あの・・・曜子さん・・・・・・?」
「はあい。曜子さんです」
「いや・・・あの・・・・・・」
 面白がっているようにしか見えない。
「なによお、言いたいことがあったら言ってごらんよ。うりうり」
「うわっ。ちょっと・・・」
 気が付けば二月もあっという間に十三日。窓の外にはまだまだ冬の気配が濃密に残っていて、カーテン越しに夜の強い北風の歌が聞こえる。センター試験が終わってから何日目だろう。浪人生になってしまった僕は今年、二度目の大学受験と戦っていた。東京の大学を受験するために地方から上京してきて、やっと借りた六畳間の狭いアパートの一室で、石油ストーブの燃える微かな匂いと、曜子さんの柔らかな匂いを感じていた。
「集中できないので、止めてください」
 本日何度目かもう分からない台詞を言って、めっ、と怒る振りをしてみる。
「わ〜。こわ〜い。カッコイイなあ、正樹クンは〜」
「耳をくすぐらないで下さい・・・」
「やだ、逃げないでよ」
「・・・曜子さん、何しに来たんですか」
「ん〜?」
 顎に指を当てて、ちょっと考える振りをした曜子さんは、
「邪魔しに来た」
 と、にっこり微笑んで全く悪びれずに言い放った。

 石油ストーブの上に乗せられたヤカンが、シュッシュッと少しだけ賑やかに湯気を飛ばしている。勉強机代わりのコタツに向かって、今日は夕方から苦手な数式と戦っていた。公式は全部頭に入っているはずだし、類型問題もこれまで散々こなしてきたのにも関わらず、僕は、どうしてもこの数学という奴が苦手だった。人には得意なものと苦手なものがある。でも、苦手だからといって無視していたら何も進まないのが受験だ。だから、なんども放り出しそうになる気持ちに抗いながら、数字の群れと戦いつづけている。難敵だ。時折、泣きたいような気持ちになってくる。世の中から数学というものが無くなるのなら、僕はきっと感動のあまり失禁してしまうかもしれない。・・・なんて、馬鹿なことを考えている間にも時間は律儀に過ぎていく。壁に立てかけた針式時計の秒針の音が耳につくたびに、はっと現実に戻されては、涙をのんでまた戦いに戻る。その繰り返しだった。
 ところで、僕が戦いつづけているものはもう一つあった。
「うわあ、寒い寒い〜。こんなに寒くちゃきっと、田淵さんも大変だよね〜」
 田淵さんて誰だ。
 思わず声の方を向いてしまうと、視線の先で曜子さんが悪戯を成功させた子供のように無邪気な顔でニヤニヤしていた。くそっ。またひっかかってしまった。すでに外も真っ暗になった七時過ぎ、曜子さんはいつもと同じように前触れ無くやって来ては、いつもと同じように僕をからかい、いつもと同じようにいちいちひっかかる僕の反応を見て喜んでいた。こんな風にして、僕が勉強に集中しようとする矢先から、彼女は絶妙のタイミングと、非常に新鮮味のある技で妨害してくる。そろそろ慣れてもいいはずなのに、僕もまた綺麗にひっかかってしまうのだ。
「・・・・・・」
「にへへ〜」
 笑顔。
 思わず目を伏せてしまう。これでは自分から負けを認めるようなものじゃないか。
「どうしたの? 目にゴミでも入った?」
「え、いや、そうじゃないです・・・って、うわっ」
 否定する間もあればこそ。慌てて顔を上げてみると、彼女は僕の鼻の先、まん前にいて、真っ直ぐにこちらの目を覗き込んでいた。綺麗に整った鼻梁や、澄んだ目に、僕は目を奪われてしまって、その場で動けなくなってしまう。
「ちょっと見せてよ」
「いやほんと、なんでもないですって」
「ちゅ」
「?!!!!?!!」
 キス。
「なはははっ。まだまだ青いのう、青年!」
 勝ち誇ったような声で笑った曜子さんを捕まえようとして手を伸ばしたけど、ひらりと交わされてしまった。コタツに入ったままではこちらに勝ち目があるわけも無かった。
「むう・・・」
 なんだか泣きたいような気持ちになってくる。
 その後も彼女の執拗な妨害は続いたけど、無視に努めたことが効を奏したのか、やがて静かになった。

 一度集中してしまえば、時間が過ぎるのはもっともっと早くなってしまう。苦手な傾向の問題をやっと一題クリアして、答え合わせを無事に終え、ふと顔を上げると、いつのまにか曜子さんはこちらに背を向けて、カーテンを薄く開けた窓から外を見ていた。
「あの・・・」
「あー・・・、また降ってきてる。冷えるはずだよね」
「・・・・・・」
 気が付くと、コタツの上にココアを入れたカップが一つ、置いてあった。甘い匂いがするそれはすでに冷えてしまっていて、いつ入れてくれたものなのか、ちょっと分からなかった。集中して問題を解いているときに、そっと曜子さんが置いてくれたものなのだろう。音を立てないように注意して、そっと飲んだ。やっぱりすっかり冷えてしまっていたそのココアは、少しだけさびしい感じのする甘さで喉を通り過ぎていった。カップが置かれていた場所に、またそっと戻して、ちらりと曜子さんを窺ってみたが、彼女はまだこちらに背を向けたまま外を見ていた。
「今年の冬は、雪が多いね。もう二月なのに」
 問わず語りなのか、どうか。ポツリと、漏らすように続けられた言葉に、しかし僕は返事をすることができなかった。
 二人が沈黙すると、部屋の中の物音がいつもよりも克明に響くように感じられた。シュッシュッ。ヤカンの音。コチコチ。時計の秒針。ふと壁時計を見上げると、いつのまにそんなに時間が過ぎたものか、もうすぐ日付が変わろうとしていた。
「ね・・・」
「・・・はい」
 沈黙の中に響いた、曜子さんの声。
「本当に、受験するの?」
「・・・ええ」
「・・・そか」
 また降りてくる静寂。コチコチ。時計の秒針。その音が、無機質なリズムが、静かに胸の奥で震える痛い場所を叩いた。彼女の背中越しには、闇の中から現れた雪がちらついては、また闇の中に消えていくのが見える。まだ、止まない。
「・・・どうして、志望大学を変えちゃったの?」
「・・・前にも一度、言いました」
「じゃあ、どうして、上の大学に行こうと思ったの?」
「それは・・・」
 言葉に詰まる。一瞬、目を伏せようとして、気づく。そこで、ふと気づいてしまった。
「どうして、私と同じ大学じゃいけなかったの?」
 彼女の肩が静かに震えていた。カーテンを掴んで軽く握られていたはずの彼女の細い手が、いつのまにか力の入れすぎで真っ白になっていた。
 ・・・僕は元々、曜子さんと同じ大学に入ろうと決意して、一年先に大学に進学した曜子さんの後を追うようにして上京してきた。でも、そこで受験に失敗。浪人生活を余儀なくされてしまった。僕は、そのまま東京に残って予備校生活を始めた。あれから一年。その時間は長すぎた。思い悩み、考えるには充分以上の時間だった。
「ね・・・、お願い、何か言ってよ・・・」
 数瞬の空白を置いて、覚悟を決めた。僕は一度、大きく息を吸い込んだ。
「オレ・・・、思ったんです。去年、受験に失敗したとき、まるで死刑判決を言い渡されたような気がしました。目の前が真っ暗になって、どうしていいのか分からなくなってしまいました。浪人という形で上京して来てからも、夜、一人で机に向かっていると、色々なことが頭に浮かびました。今回上手く合格したとしても、二年に開いてしまった曜子さんとの差は埋まりません。曜子さんは二年も早く社会に出て行ってしまう。今はまだ学生だけど、きっと社会に出てしまったら、今よりももっともっと曜子さんは遠くなってしまう。そして、その差はきっと埋まらないんです。それなら、オレはもっと上の大学に行って、少しでも曜子さんに見合う男になりたい。そして出来てしまった差を、なんとかして縮めたい」
「・・・・・・」
「頭がおかしくなりそうなんです。白いノートに向かって一人で勉強していたりすると、なんだか何もかもに取り残されてしまうような気になってしまって、頭がおかしくなってしまいそうなんです。それと・・・」
 ―あなたは見るたびに綺麗になっていってしまって、どんどん手が届かない存在になってしまうような気がするんです
 その言葉は、言えなかった。
 『邪魔しに』来てくれている、彼女の背中には。

「・・・人が、いるの」
「・・・え?」
「私を、好きだって言ってくれる人がいるの」
 心臓が、跳ね上がった。
「大学に入ってすぐに親しくなった人でね、去年の夏に、大学のサークルのみんなで海で合宿をした時に、初めてそう言われたの。それから、ずっと好きだって言われてる。行動力があって、優しくて、よく気が付く人で、そこにいるだけでみんなを和ませてくれる人」
 こめかみが熱くなって、視界がどんどん真っ白になっていった。
「実は明日、デートに誘われたんだ。免許をとって、車を買ったから海にでも行こうって。二人だけで冬の海を見に行こうって。冬の海って、とても綺麗なんだって。彼、最近私に元気が無いって言って、綺麗なものを見たら、きっとすっきりするからって。・・・私、彼に惹かれてる。明日は、バレンタインデーなのに」
「・・・・・・」
 鼓動が乱れて、息が荒くなってくる。
「ね・・・?」
 彼女が、振り向いた。
「私、正樹を待っていてもいいの? 好きでいてもいいの? いつまで・・・待てばいいの・・・?」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔をゆがませて、
「正樹を、好きでいさせて・・・」
 立ち上がった僕の胸の中に、彼女が飛び込んできた。

 少し後。薄暗い部屋の中、壁時計の長針と短針が微かな音を立て、重なった。

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『おめでとう、正樹』
「うん・・・」
 握った携帯電話の向こうから、若干のノイズに混じって、曜子さんの声。あんまり電波が良くないみたいだ。それに加えて、僕の周りでは喜びに満ちた誰かの万歳の声と、結果を嘆き悲しむ声の、悲喜交々のドラマが溢れていた。そのせいで彼女の声が掻き消されそうになる。携帯を耳に強く押し付けた。それでも周囲の喧騒は僅かな隙間から春になりかけの風と共に忍び込んできた。きっと、曜子さんも僕の声を聞き取るのに苦労しているだろう。

 だから、僕は精一杯の大声で、もう一度彼女に告げた。

「受かりました! 春から曜子さんと同じ学校です! 愛してます!」
 微かなノイズの向こうで、彼女が小さく笑ってくれたような気がした。  



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